6-1
冬で、晴れで、土曜日でした。
信号待ち、私の前に、ひとりの女性がいました。
紺色の長いコートの裾から、さくら色のワンピースが見えました。
肘のあたりまで伸びた黒髪が、マフラーできゅっとまとめられていたのを、よく覚えています。
新品のステンレスみたいにかたい風をたべて、女性の髪が持ち上がっていました。
それは、お香のけむりのように、やわらかい髪でした。
ふと高いところに目をやると、ビルの窓に反射して、太陽がふたつになっていました。
ひかりに敏感になったのは、いつからでしょうか。
私の白いコートに、裸になった木の影が落ちます。
ほんの一瞬で、木漏れ日柄のコートになりました。
そのとき確か私は、影を保存できたら、と思いました。
冬で、晴れで、あのひとはどこに消えたのでしょうか。
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やけに電柱が目障りな日。
絵作りのために、電柱をぬいてくれとプロデューサーに頼んだ映画監督がいたという話を、誰かに聞いたことがある。
私は小さい頃、電柱に登りたいと何度も思った。2メートルくらいの位置から生えている棒に、足を掛けたいと思った。
いちばん上から見える景色は、どんなかな。
通天閣のほうで、10円を10円で売っていたおじさんは、まだそれを続けているだろうか。
あぁ今日も、手についたアロンアルファがはがれない。
冬で、晴れで、私はどこに向かうのだろう。
わからない。
でも大丈夫、みんな、栄養ドリンクの中身がどんな色か知らないから。
5-3
部屋の真ん中に置かれた観葉植物の分厚い葉に霧吹きで水をかけ、ふわふわのタオルで丁寧に拭く。
12月の午前の低い陽がぬらぬらと照らすそれの太くしっかりとした葉脈をひとつひとつ確認しながらうっとりとした気持ちでこの時間を過ごしている。葉っぱも僕も。
キッチンではやかんがシューシューと自己主張をする。
床に張り付いた腰をどうにか剥がして火を切り、やかんとマグカップを持って部屋の真ん中に戻った。
てっぺんにいるきらきらとした若葉を少し千切り、やかんに入れ、部屋中にいい匂いが漂うまでまたタオルで葉を拭く。
僕ももうずいぶん年をとってしまった。
玉手箱でも開けただろうか。
鏡のないこの部屋の中でそれを確認する術はないけれど指はしわくちゃだし、抜け落ちる髪の毛は真っ白だ。
なんでなんだか今年の冬は長すぎる。
〜ここでエンドロールが流れる〜
-とんでもなくゆっくりなテロップ
-聴いたことはないけどはっきりとわかるクリスマスソング
-画面にはホームビデオで撮った世界遺産
5-2
月が欠けるのがほんとうにこわい。
夜の光がどんどん減っていって、自分のからだが持つ灯も、なくなってしまうような気がする。
20Wの電球が、僕の部屋をぼんやりと照らしている。
白のコーティングがされたぽってりした電球は、月に似ているな、と思う。
この部屋の月は、いつだって満月のままだ。
お願いだから欠けないで、これからも。
棚の上には念じたら落ちそうなテレビがある。世はゴールデンタイム、芸人たちが次々とネタを披露していく。
20秒に一度、関根勤の笑顔が映る。
この番組のスイッチャーは彼の笑顔に頼るのをいますぐ辞めろ。
関根勤だいすき。
役目を終えたショートホープが、灰皿の上に山をつくっている。
希望を体内に取り込んでは、希望を捨てている。
そのことに意識が向くたびに、なんだかとても、切なくなる。
あぁ、早く粉になって、夕方5時くらいの風に飛ばされてしまいたい。
この気持ちは、いつも同じ明るさで僕の中にあるのだ。
はやく外に出なければ。
好きな服に着替えて、はやく外に出なければ。
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踏切で電車が行くのを待っている。
ビニール傘にのったたくさんの水滴が、街のあかりで赤く黄色く青く、染まっていく。
会話の最中にそばを電車が通るとき、僕は沈黙をたのしめるひとになりたい。
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紙石鹸に書かれた短い会話を眺めながら、動画サイトでみたあるホームビデオのことを思い出していた。
父親が小さな娘に「ピザって10回言って」と促す。
娘は8回を一息で言い、深く息継ぎをして残りの2回を言った。
決まり通りに、父親が「ここは?」と肘を指差す。
すると娘は、「ひじひじひじひじひじひじひじひじ、ひじひじ」と言ったのだった。
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(やっぱり僕は、この暗号のような記号のようなものを、すらすらと読むことができる。)
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「ねえ、かわいいって10回言って」
「え」
「いいから」
「ピザ10回みたいなやつ?」
「いいから、言って」
「かわいい、かわいい、かわいいかわいいかわいい、かわいいかわいい、かわいい、かわいい、かわいい」
「ありがとう」
「そんな気がしてたよ」
CHAPTER5 1
ガタン
と、新聞受けにアレが入る音がした。
インスタントのお味噌汁を飲み干し、ゴミ箱に捨てる。
そのままゆっくりと玄関まで行き覗き窓で外を確認する。
いつも通り目があうと少年は小さく会釈をしてタタタッと駆けて行った。
僕はそいつを「ごん」と呼んでいる。
安直だがごんぎつねのごん。
いつも僕の起きている時間に合わせて新聞受けにアレを入れに来る。
アレというのはなんとも形容しがたい、一番なにに似ているかと言うとイガグリのイガの部分をつまんで伸ばして叩いて齧って……まぁとりあえず手のひらにすっぽり収まる程度の容れ物なのだ。
それを優しく撫でるとだんだんにイガがなくなり、まんまるのぴかぴかの泥団子みたいになる。そこにデコピンをするとぱかっと開く。
ふわっと中から石鹸のいい匂いがする。
紙切れが一枚。
そう、紙石鹸が入っている。
紙石鹸には見たことがない文字のような記号のようなものが書いてあるのだが、不思議と僕にはそれがすらすらと読める。
小説なのだ。
へんてこな文字で書かれた小説には案外普通の女の子の生活が記してある。
なにか大きなことが起きるわけでもなく、女の子とそのペットとの生活。
僕もかつて飼っていたあいつに彼女は「モンブラン」という名前をつけている。
その名前がなにを指しているのかは僕にはわからない。
ググってみてもそんな単語はヒットしなかったし古い辞書にも載ってなかった。
小説を読みきると洗面所にいき、紙石鹸を大事に泡立て手を洗った。
いつのまにかこれは僕の習慣のひとつになっている。
4-2 アサシン
ハルは思い出した。
CHAPTER4 1
夕方の国道沿いを、最近購入した自転車で走っている。
小ぶりな車輪、深緑に白を少し足したような色の、私は速くかわいく走りますって言ってるような自転車。泥除けなんていらない。ずっとこういうのに憧れてた。
さっきまで髪を結っていたヘアゴムが、今は右の足首に付いている。デニムの裾がチェーンに引っかかるのを防ぐためだ。おろした髪がなびいて、風の流れを感じることができる。後ろ姿はどんなだろう。
車の通りが少ない。目を閉じて走ってみる。風が首を冷やす。目の前の、まぶたの前の道を想像する。ペダルにかける足が震える。こうしてあいつは事故ったと聞いた。
今日はとてもいい天気だ。まっすぐと伸びた国道の果てには、沈みかけの太陽がぼんやりと見えている。ひとはいつになったら、太陽の輪郭を知ることができるのだろうか。
いま私は、ひかりに向かって走っている。果てしなく遠くて大きい、あのひかりに向かって、走っている。
引っ越して半年も経つのに鍵を閉めるとき逆に回してしまうこととか、カメラ目線のポスターはどこから見ても目が合って怖いとか、そんなことを考えながらペダルを漕いでいるうちに、太陽はすっかり姿を隠してしまった。
太陽が沈み、空が朱くにじんでいる時間を"マジックアワー"と呼ぶって教えてくれたのはハルだった。私は1日の中でこの時間が一番好きだ。ハルもきっと、好きなのだろう。
ときどきたまに、こういう時間の流れにどうしようもなく感動することがある。
目のふちに涙がたまる。幾多ある信号、それらを目を細めて観ると、光が放射状に滲むのがわかる。
これがみたくて、これがみたくて外に出るんだ。
ハルに電話をしよう。
そうしたら、またすこし走って、最初に見つけたお店でごはんを食べよう。
今日の私は食べログに頼らない。
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「どしたの急に」
「ねえハル、いまどこ」
「家」
「今すぐベランダでて。空がヤバイよ」
「お湯が沸いたらね」
「いいからはやく。ヤバイから」
「ヤバいってなに。君はそうやってすぐ言葉をサボる。ちゃんとわかるように説明して」
「ごめんごめん。ええと、自転車で走っていたら、太陽がどんどんなくなっていって、空が、空の青が、朱くなって、赤くなって、紫になって、ついには雲もどんどん食べられていく。とんでもなく綺麗で、私、嬉しくて、悲しくなってきた。」
「わかった、わかった、いまみるから」
「はやく」
「あぁ、これは、ヤバイね」
「ほら、ハルも一緒だ」
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「そういえば食べログ小説どう」
「いい感じになってきたよ」
「いまどういうお話書いてんの」
「説明しにくい」
「えー。じゃあなんかいい感じに例えて」
「んー」
「がんばって」
「あー。君はセーラームーンの決めポーズ知ってる?」
「え?」
「だから、知ってる?」
「なんとなく。でも出来ない」
「そういうことだよ」
2-5 小説に
家に着くなりハルはコンタクトを外しダサい眼鏡に着替えベッドに潜り込んだ。
薄暗い部屋の中にブルーライトがハルを照らし出す。調子の悪いMacBook Airを叩き起こして食べログに繋げると早速レビューを書く店を物色し始める。全く関係のない店、とはいえ一応自分なりのルールとして行ったことのある店を選ぶようにしている。
前回は高円寺のサイゼリヤ。その前は道玄坂の鳥貴族。その前はディズニーシーのホテルミラコスタ。一番初めはそう、新宿のどん底。
今回は少し悩んで浅草の神谷バーに決めた。
書き出しに迷ったりはしない。
ハルの食べログ小説は今結構いいとこまで来ている。
主人公はたぶん女。若い女。
家で何かを飼っている。
通称「ふわふわ」
いったいそれが何を指すのかわからないながらも話はゆったりと進んでいっている。
ちょうどこの間のサイゼリヤにてそのわけのわからない「ふわふわ」の正体が見え始めてきたところなのだ。はやくはやくと自分を急かしながらキーボードをまあるく切りそろえた爪で叩く。
この新しい愉しみにはまだ誰も気がついていない。
と思っている。
ハルはまだ。